We are traffic !!
チラシ、そう正にそれは紙に刷られたビラであるがそれ曰く「1992年にサンフランツスコで始まり世界へ広がった草の根的な自転車ムーブメント”クリティカルマス”(wiki)の始まりから勃興期までを関係者たちの証言と路上の映像から構成した映画「We are traffic」発表から19年目の2018年日本語版堂々公開!!」とある。
直感が「観よう」と囁くので新栄へと向かった。
元メッセンジャーにして現在はこの上映会場「ぶくパル」の管理人をされている榎本氏、そして名古屋の自転車便「デイジーメッセンジャー」代表の嶋崎氏による共同開催であったのだが、上映権を購入した榎本氏は更にコストをかけ、丁寧に日本語字幕をつけた。 これを投げ銭式で開催するのだから太っ腹というか両氏の自転車愛に賛辞を送るべきだろう。 ありがとうございます!
会場前にはたくさんの自転車が。 皆様やはり自転車でのご来場で、スタイルは様々だけれどもなんとういか誰しもが「そと」の匂いを漂わせてる。きっと街中を走り抜けて来たからだろう。
1999年に公開されたこの映画、監督はテッド・ホワイト、上映時間50分のドキュメンタリー映画だ。
テーマは上記のとおりだが、テンポや音楽も実に軽妙で見やすい作りになっている。 冗談交じりで、同時に真剣な想いで始まったそのムーブメントと歴史をなぞりつつ、時には数千人という規模のライドの最中の視点から全体を追体験でき、見始めと同時にすぐに引き込まれた。
インターネット普及以前の「同士よ、集えよ」という引力はむしろ今よりも強かったのかもしれないと想像しつつ、「自転車的な生き方」をする者たちが持つシンパシーの導火線に着いた火は、米国内主要都市にとどまらず世界へと飛び火し、増え続ける動員は際限が無いほどに見えた。
怒れる市民がプラカードを手に街を練り歩く所謂デモとは違い、オーガナイズされたプロパガンダを掲げつつ訴えを叫ぶような様子ではなく、ライドは「自転車を利用する人はこんなにもたくさんいるのです」という事実を単純に可視化するものに過ぎない穏やかな雰囲気の集まりではあったが、金曜日夕方の繁華街が部分的とはいえ数千人の参加者で交通麻痺を起こしている訳で、世間の反応は全てがポジティブな訳にはやはりいかなかった。 想定内だったと語られるものの、自転車を嫌うドライバーも少なからず存在し、同時に自転車を嫌うドライバーを嫌うサイクリストとの小競り合い等を端に発し、ライドは警官隊との衝突にまでに至る。 これだけの規模のデモンストレーションでありながら代表する組織や主催者を持たない体であったことは大いに行政の手を焼かせる結果となり、最盛期のこうした暴力沙汰や逮捕劇といった摩擦をむしろ社会との具体的な接点の座標として、ムーブメントは折り返し地点を過ぎて行くあたりで映画は終わる。
ハッと没入感から我に帰る。その後の都市型自転車生活者たちはどうなっていってしまうのか?折しも裏ではデトロイト暴動をテーマにした映画の公開が始まった所で息の詰まりそうな予告編は相当の覚悟を要求していたわけだが、思いがけず、こちらはこちらで生々しい見どころもあった。
続編がもしあれば20年後の社会がどうなったのかをドキュメントして欲しいところだが、なんの、今の世を見渡せばなんとなく見えてくる。
当時はだれも予期しなかったインターネットの世界があまねく人々に開かれたことにより、社会より先に個人が変わってしまった20年後の現在、オンラインのナビゲーションサービスは車の多い通りを避けつつ、完璧に張り巡らされたバイクレーンを的確に繋ぎ、安全快適に目的地へと誘う。 風を切りながらクリアな音声を相手にインタラクティブなやり取りが可能だったり、ついでに言えばこうしたサービスのほとんどが無料(かそれに近い低額)で享受できるのが普通となった。 自転車は都市に受け入れられたのだ。 街中に見みかける駐輪設備なども彼らが社会に発したメッセージが実を結んだ結果のひとつといえるかもしれないし、逆さにしてみれば、クリティカルマスの様なグラスルーツアクションが現在を結果とする原因の一つであることには違いない。
さて日本ではどうだろう。 嶋崎氏が語るように、彼らの語った「セレブレーション」を的確に解釈するのは難しいかもしれない。 祝祭と訳されたりするが、「祭」という字を用いるとどうもお囃子が聞こえてきてしまう。 様式の話ではなく精神の在り方についてなのだが、我々日本人も自己肯定に少しずつ慣れてきた訳だし、こうしたアメリカの歴史を手本にし(真似るという意味ではない)より良い社会を目指してグラスルーツな発信を続けていくべきだろう。
この小さな上映会のように。